伯父さん

私の再就職先は、知的障碍者や精神障碍者の
就労を支援するNPO法人だった。

私がこの団体の求人に応募したのは、募集職種が
経理事務であったことはもちろんだが、その活動に
関心があったからだ。

私は厳密に言えば精神障碍者には該当しないから、
精神科に通院していることはクローズして応募した。


精神障碍者に対する支援内容にも関心があったが、
知的障害者に対する支援内容の方が、より興味を
そそられた。



母の長兄は幼少時に小児麻痺にかかり、その後遺症
で知的障害が残った。

早くから家を離れて、専門施設において監督者の下で
労働しながら集団生活を送っていた。

正月やお盆に母の実家に行くと、休みで帰省していた
伯父が出迎えてくれた。

子ども心にも、伯父が周囲の大人とは違った雰囲気
持っていることに気が付いていた。

無口だけれどいつもにこにこして、いたずらっぽい
(少年のような)まなざしをしていた。

私たちが帰るときは、「また来いな。」と言って
ずっと手を振ってくれた。


母のきょうだいは何故か「兄さん」「姉さん」と
いう呼び方はせず、名前で呼び合っていた。

だから私たちきょうだいは、伯父の障碍が理解
できる年齢になるまで、詳しいことを知らなかった。

伯父の障碍を知って、子ども心に感じた違和感
の説明がついた。

しかし、伯父に対する感情に変化はなかった。
いつまでも無邪気な伯父さんだった。

その伯父も歳を取って、現在は介護施設で
生活している。



私には「福祉」についての知識はなかった。

就労支援団体で働くことにより間接的ながら、
障碍者の役に立つことが出来れば、きっと
やりがいがあるに違いないと思った。


しかしそんな思いとは裏腹に、厳しい現実が
待ち受けていることを、私はまだ知らなかった。














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テーマ : アスペルガー症候群・自閉症スペクトラム
ジャンル : 心と身体

遠い夏

 確か、小学校2年生だったと思う。

同じ歳の見知らぬ男の子と、長い時間話していた記憶がある。

男の子と普通に話をしたのは、その時が初めてだった

何故なら、私の周りにいた男の子は私をいじめるか、

無視するかのどちらかしかいなかったからだ。


 母の実家は海辺の町にあった。

山も迫っていて、海の幸・山の幸が豊富だった。

その男の子とは、夏休みで母の実家に泊まっていて

農道をぶらぶら歩いているときに出会った。

私たちはいろんなことを話した。

家族のこと・学校のこと・友達のこと・遊びのこと。

なんだかとても楽しかった。

もう顔も名前も覚えていない、遠い夏の思い出。



長く勤めた会社を退職して、再就職活動を始めた頃、

友人に「就活もいいけど、婚活もしたら。」と言われた。

「婚活」と言われても、ピンとこない。既に47歳。

ずっと気ままな一人暮らしをしてきたから、今更誰かと

一緒に暮らして、お互い気を遣い合うのはしんどいな

といったところが本音。この年齢になれば生活はもちろん、

健康・老後・介護・相続とかこまごまと面倒なリスクを共有

しなければならなくなる。そこまでして一緒にいたいと思える

人がいるかなと疑問がわいてくる。孤立死(孤独死)は、

寿命が尽きてしまったということで、ある意味仕方がない。

ただ、発見が遅れると周囲に迷惑をかけるから、速やかに

発見してもらえる手立てを考えておかなければならない

とは思っている。

 願わくば、40年以上前のような何の事情も考えないで

済む異性の友人がいたら、人生が面白くなるかもしれない。

私はお酒が飲めないから、ただの茶飲み友達のような関係。

想像にすぎないが、異性の目から見た事象の捉え方を知るのも、

新しい発見があって楽しいのではなかろうか。

勝手に想像してみるが、このご時世そんな余裕のある人は

なかなかいないでしょうね。










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劣等生

 就職が内定したので、短大の冬休みと春休みを利用して

実家近くの教習所で車の運転免許を取得することにした。


 私の父は、普通自動車免許の他に大型免許など

種々の免許を持っていて、田畑の土地改良のために

1年間休耕せざるをえなかった年には、長距離トラックの

運転手をして家計を支えていた。運転できないのは、

タクシーやバスなどお客さん相手の車両だけらしい。


 母も私が幼少の頃に、運転免許を取得していた。

家業が農業だから、普通車の他に軽トラックを運転する

必要も頻繁にあったので当然と言えば当然だった。

だから私も学生のうちに免許を取得しておきたかった。


免許の取得は難航を極めた。

私は教習所の劣等生だった。


当時はマニュアル車のみで、オートマティック車限定の免許

制度など無かった。

自分の運動音痴ぶりは常々自覚していたが、運転センスも

ないことを思い知らされ、毎日教官に叱られて落ち込んでいた。

運転センスも、発達障害自閉症スペクトラム)の傾向に

左右されるのかされないのかはよくわからない。

とにかく不器用な私は、技術の習得が人より遅いのだ。

坂道発進に失敗したり、S字カーブやクランクで脱輪したりは

日常茶飯事。たまりかねた教官から「降りろ!」と怒鳴られた

こともある。でもコース内で車から降りるのは恥ずかしいから

「嫌です。」と我を張り通した。教官にしたら迷惑千万な生徒

だったと思う。

それでも何とか冬休み中に「仮免許」を取得する

ことができた(たぶん、おまけしてくれたのだろう)。

 父に教官役になってもらい、家の車で練習したこともある。

結果はお小言の雨あられ。呆れられてしまった。

ちなみにその2年後、弟が高校3年で免許を取得することになった。

同乗した父は、私より弟の方が数段運転がうまいと言った。

それはそうでしょう。私より弟の方が将来車に乗る機会は

多くなるに違いない。私より下手だったら困るでしょう。


 仮免許を取った段階で冬休みが終わったので、

残りは春休みということになった。しかし、間が空いた分

運転技術を忘れてしまった。またやり直し。

自分の劣等生ぶりに、教官に申し訳なく思った。

よく我慢してくださいました。頭が下がります。

何度、試験に落ちたか覚えていない。

なんとか春休み中に実技試験に合格できた。

就職が決まっていると言ったから、

お情けで通してくれたのかもしれない。

補習ばかり付いたので、アルバイトで貯めたお金が

足りなくなってしまった。母が「半分出してあげるよ。」

と言ってくれた。ありがとう、そしてごめんなさい。


 学科試験は、就職してから休日を利用して受験した。

ようやく運転免許証を手に入れた。長い道のりだった。
















 

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就職活動

 短大に進学したのは、図書館司書になりたかったからだ。

必要な単位を取得すれば、卒業と同時に司書資格を得られた。

しかし、現実は厳しいもので図書館司書の求人は殆どなかった。

かろうじて1件だけあったが、学内選考の段階で落ちてしまった。


さて、どうしようか。

もうこれ以上、両親に甘える訳にはいかない。

特に短大2年時は、弟が高校、妹が中学入学と重なって

教育費の負担がかなり重かったはずだ。

絶対就職しなければいけないと思った。


だんじょこようきかいきんとうほう【男女雇用機会均等法】

雇用の分野において男女の均等な機会および待遇の確保を目的として制定された法律。

募集・採用・配置・昇進・職種・雇用形態変更・退職勧奨・定年・解雇・労働契約更新等について
事業主による性別を理由とする差別の禁止、婚姻・妊娠・出産等を理由とする不利益取扱いの禁止、
セクシャル‐ハラスメントに関する雇用管理上の措置の義務づけ等を定める。

1986年施行、97年・2006年大幅改正。

広辞苑第六版より引用



 私が就職活動をしていた時期は、

「男女雇用機会均等法」が施行される前だった。

短大の掲示板に貼り出される求人票には、現代だったら

大顰蹙(ひんしゅく)を買うであろう求人条件が

当たり前のように記載されていた。

 容姿端麗

この定義は甚だあいまいだ。

どこからどこまでが容姿端麗で、どこからどこまでがそうでないのか。

そもそも働くために、どうして容姿端麗でなければいけないのか。

たまたま採用担当者の基準から外れてしまった容姿端麗ではない

女性はいくら優秀な人材であっても、採用されないのか。

● 自宅通勤限定

なぜ女性にだけ自宅通勤を強いるのか。

自宅通勤だと身元がしっかりしていると断定できるのか。

私のような地方出身者は、応募する資格もないということか。


世の中は不合理が蔓延していると思った。

所詮、小娘は卒業したら腰掛程度に働いて、

良妻賢母になって内助の功を尽くせばいいという見えない圧力。

もちろんそれが理想だと思う女性もいるだろうし、

そう思わない女性もいるだろう。

単一の価値観を押し付けられるって、哀しいことだな。

いかんせん逆らう術はないけれど。




 私は、応募条件が「容姿端麗」「自宅通勤限定」以外の

企業に応募して、奇跡的に内定を得ることができた。

内定決定を就職担当の先生に報告した際、

「あの会社が、あなたみたいなおとなしい人を採るとはね。

もっと勝気な人を採ると思っていた。」と言われた。

私は、しばらくご無沙汰していたパニック状態に陥り、

何も言えないまま涙ぐんでしまった。

先生はやれやれといった表情で、こう言った。

「こんな程度で泣いていてどうするの。元気出しなさい。」

そうなのだ。私の中の社交不安障害は影を潜めていただけで、

消滅してはいなかった。

先生が危惧した通り、学校という横社会から会社という縦社会へ

移行するに当たり、私が潜在的に抱えていた問題は次々に

噴出し、ますます私を不安と緊張の中に陥れていった。









 

  

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アルバイト

 短大1年時に、下宿の先輩の紹介で短期間

(3ヶ月ぐらい)アルバイトをした経験がある。

職種は、ショッピングセンターのフードコート内にある

セルフサービスの飲食店での皿洗い等の雑用係。

   とにかく「しんどかったー。」の一言に尽きる。

   放課後の3時間くらいのアルバイトだったけれど、

   殆ど同じ場所にずっと立っているだけで辛かった。

   若くて体力があったから勤まったが、50歳を超えた今

   同じことを毎日しなさいと言われても、とても

   無理だと思う。自分に立ち仕事はつくづく

   向いていないのだと自覚した。

 それでも何とか続けたのは、どうしても

手に入れたいものがあったからだ。

① コンタクトレンズ
  (中学生からずっと眼鏡だったから)
 
② ラジカセ
  (テレビはあったけれど音楽を聴きたかったから)

③ 自動車免許
  (学生のうちに取得しておきたかったから)

 自分で働いてお金を稼ぐことがどんなに大変か、

離れてみて親の有難さが身にしみてわかった。

しかし、違和感を覚えたこともあった。

   バイト先の上司は、名前を呼んでくれなかった。

   いつも「おねえちゃん」と呼ばれていた。今ならさしずめ

   「おばちゃん」だろうか。確かに小さい子供から見れば

   「おねえちゃん」もしくは「おばちゃん」なのだけれど、

   アルバイトは名前も呼んでもらえないほど、社会的に

   地位が低いのだろうか。やっぱり何か変だと思った。


 他にスーパーの棚卸のアルバイト(単発)も経験した。

現代は、商品管理等はすべて機械化されているから

この種のアルバイトはもう存在しないだろう。


 先輩がやっていたスーパーのレジ係や、友人がやっていた  

電話対応(今でいうコールセンター)のアルバイトの話を

聞いてみたが、対人関係が苦手な私には臨機応変な対応も

気の利いた受け答えも、うまくできそうにないので諦めた。


現在でも、コンビニのアルバイト募集広告をよく見かけるが

私は(自閉症スペクトラムの例にもれず)様々なことに同時に

気を配るのが苦手だから到底勤まらないと諦めている。









 

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