ジレンマ

 高校に入学して、学生生活に希望が持てるようになった私だが

それまでの15年の人生で形成されてしまった「核」となる性格を、

変えたいと切望していたにもかかわらず、それがとても困難で

あることに気付いてしまった。


中学3年時のクラスから完全に「孤立」してしまった失敗経験を

省みると、他者も自分も傷つかない方法は中学2年までのように

心に「鎧(よろい)」をまとって、できるだけ目立たない存在でいる

ことが最良のように思えた。


 友人に、「喜怒哀楽をあまり表情に出さない性格だよね。」

と言われたことがある。

表情に出さないのではなく、出せなかったのだ。

   「喜怒哀楽」のうち「喜」と「楽」は、感じているのだけれど

   表情に出るタイミングが遅いから、不自然に見えてしまう。

   「怒」と「哀」は、他者がポイント①で感情を切り換えられる

   と仮定するならば、私はポイント③ぐらいまで延々としつこく

   引きずってしまう。


おまけにそういった「負の記憶」が

何の前触れもなく出現してしまうので

(後に「フラッシュバック」という現象を知った)

それを表情に出してしまうと、

何も知らない周囲の人を不快な気分

にさせるのではないかと恐れていた。



 また会話がかみ合わない、いくつかの難点を発見した。

   ●冗談が通じない
      しっかり真に受けます。「冗談だよー。」と言われて、
      どうして気の利いた返事ができないのか悩む。

   ●会話に隠された言外の含みに気付かない
      後から不審に思って考え込んでしまう。

   ●話しかけ方がわからない
      これは人見知りが強すぎるからで、
      一旦警戒心が解けると普通に話しかけられる。


 私にとって集団生活は、楽しいこともあるけれど

「不安」と「緊張」の連続だった。

 それでも人間は一人で生きていけないから、

人を支えて人に支えられて(こちらの方が多いが)、

進まなければいけないということは理解している。









 

 



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テーマ : アスペルガー症候群・自閉症スペクトラム
ジャンル : 心と身体

本質

 4年前から漂流を始めて、さまざまな経験を積んできた。

その大半を、「再就職」のために打ち込んできたという自負がある。

自暴自棄にならなかったのは、友人やキャリア・カウンセラーさん

両親の理解と優しさがあったからだと思う。とても感謝している。

それにしても、迷えるアラフィフ女には過酷な日々の連続だった。

しかし、この期間がなければ私は自分の正体を知ることはなく、

長年の「どこかずれていて、どうにもうまくいかない、どうして?」

の疑問を解決することはできなかっただろう。

デジタル大辞泉の解説
しゃこうふあん‐しょうがい【社交不安障害

人前で意見を述べたり電話を掛けたり、目上の人や初対面の人と話すような場合に、
普通以上に強い不安や緊張を感じ、また、そのような場面を避けようとして社会生活に
適合できなくなる障害。社会恐怖。社会不安障害。
SAD(social anxiety disorder)。


 3年近く前から通っているクリニックにおいて初診で言われたのは、

  社交不安障害の所見がある

  ②中心的な症状は、強迫性障害が主なうつ状態
  (前のクリニックでの診断と同一)

  発達障害の傾向があるが、明確な診断は不要
  (前のクリニックの診断と同一)

当時、私は項目③の重要性を認識していなかった。
(「自閉症スペクトラム」という概念を知らなかった。)

明確な診断が不要といわれた理由は、発達障害とはっきり診断がつく人は

たいてい話をしている段階で(特徴があるので)すぐに気がつく。

⇒ あなたにはそれが現れていない。

しかも、25年以上にわたり働いて一人暮らしを続けている。

⇒ つまり日常生活上の困難はない。


私は、「発達障害の傾向があるが、明確な診断は不要」という

言葉だけで安心してしまい、障碍者ではないから大丈夫だと

思い込んでしまった。

だから自分の本質が、

発達障害の傾向がある」=「自閉症スペクトラム」で

その二次的障害として「社交不安障害」「強迫性障害」「うつ病(かつて)」が

加わってきたのだと自発的に気づくまでに、更に2年の月日を要してしまった。

   あくまで自己判断だが、

   「社交不安障害」は小学校入学で、

   「強迫性障害」は就職した20歳で、

   「うつ病」は40歳で発症し休職した。

   「うつ病」は翌年再発し、更に長期の休職を余儀なくされた。

   「うつ病」は軽快して「うつ状態」になってはいるが・・・。





 「自閉症スペクトラム」の傾向がある人は、

症状の強弱にもよるが、高い割合で存在するらしい。


自閉症スペクトラム
10人に1人が抱える「生きづらさ」の正体
(SB新書)   本田 秀夫 (著) より引用



 私はどの程度なのだろうか。

自閉症スペクトラム指数(AQ)日本語版を試してみた。

得点は45点。

33点以上だと自閉症スペクトラムの可能性があるそうだ。


ため息出るけど、受け入れて生きていくしかないよね

私よりずっと苦しんでいる方、悩んでいる方はたくさんいると思う。

そのような方たちや、発達障害の傾向がある若い世代・子供たちが

希望を持ちやすくなるよう研究や支援が進むことを願ってやまない。











  

  

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晩成

 ばん‐せい 【晩成】
おそく出来あがること。おそく成就すること。
晩年になって成功すること。「大器―」
広辞苑第六版より引用


 このブログのタイトルに入れている「晩成」という言葉。

私はこの言葉を「晩年になって成功すること。」ではなく、

「おそく出来上がること。」の意味で使用している。

     もちろん「成功したい=地位や富を得る」という欲求が

     ないわけではないが、私は「大器」ではないから

     自分が生活し得る程度の収入があれば、

     ほぼ満足できるような気がする。


当年とって51歳、「人生五十年」と言われていた時代には

もう亡くなってもおかしくない年齢だ。

ずっと以前にテレビで見聞きした記憶があるが、

現代は「人生八十年」の時代になったから

実年齢を「8」で割って「5」をかけると、

自分の精神年齢を推定できるという情報があった。


だとしたら、私は「32歳弱」ということか。

その方が感覚的にあっている感じがする。

自分の実年齢が信じられないくらい、

私はとても幼いと自覚している。


有名な孔子の論語による「不惑(40歳)」で、

うつ病になりその後、惑いに惑って退職した。

「知命(50歳)」を過ぎても天命を知るどころか

その手掛かりを探るべく漂流している。

この分だといつ「晩成」できるか、心もとない。

それでも「晩成」を夢見ていたい。

死の瞬間に「生まれてきて良かった、

これまで生きてきて良かった。」と

回想できれば最高だと思っている。




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部活動

 高校に入学して新しい環境に戸惑いつつも、

心のささくれが少しずつ治まっていくのを実感できていた。

そんなとき、部活動に参加しなければならないという

悩ましい選択を迫られた。


   中学生のときは、授業時間内のクラブ活動だけが

   義務付けられていたから、仕方なく文系のクラブに

   所属していた。せいぜい週1時間くらいだったから、

   そんなに苦痛には思わなかった。

   普段の日はさっさと帰宅し、好きな読書をするなどして

   過ごした。部活動に参加したいという気持ちもなかった。


 部活動の選択は容易ではなかった。

運動神経ゼロの腰痛持ちだから、体育系が無理なのは

最初からわかっていた。

問題は文系のどこに入るかだった。

部活動の勧誘の時間、私は校舎をあてどもなくグルグルと

歩き回っていたが、気持ちは乱れるばかりだった。


疲れたなと思っていたとき、上級生から

「話だけでもいいから聞いてみてよ。」と勧誘されて

丁度座りたくなっていたし、話だけならと部室に入った。


 そこは合唱部だった。

本当に話だけ聞くつもりで入部する気はなかった。

音楽や歌は好きだけれど、人前で歌いたいなんて

微塵も思っていなかった。


中学校で歌のテストを拒否したときの記憶が蘇ってきた。

音楽的センスがない。楽譜も読めない。

声の質はあまり響かない、内にこもるタイプで

緊張して声が小さくなると、何を言ったか聞き取れないので

「もっと大きな声で話しなさい。」と、先生によく叱られたものだ。

体は大きいのに、声が小さい小心者の私。

だから、まったく自信がなかった。


 先輩たちはとても優しかった。

「一人で歌うんじゃない、みんなで歌うんだから

大丈夫だよ。」と言ってくれた。


その言葉にほだされて、留まることにした。

自分でも凄く意外だったが、3年間続けて楽しかった。

女子生徒ばかりだったけど、同級生も後輩も

優しかった。顧問の先生も優しかった。

私は初めて他者と協力して何かをする

という喜びを感じることができた。


今でも、とても感謝している。





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希望

 義務教育最後の年は、学校生活に何の希望も持てないまま

坦々とやり過ごすことだけで手一杯のうちに終わった。

私は少しばかり残った向学心と、いずれは親の庇護を離れて

就職しなければいけないからと「高卒」の履歴だけが欲しくて、

隣の市の高校に進学した。


 小学校・中学校は小さな町には一つずつしかなくて、

同級生は70人ぐらいで、ほとんど同じ顔ぶれだったから

どこか窮屈で閉鎖的だった。

 高校は近隣の町からも生徒が集まるので、6クラスあった。

同じ中学校から進学した同級生も数人いたが、それだけで

開放感があった。

 人がたくさんいればその分、個性もさまざまだった。

中学校と違って高校には、訳もなく私を貶めたりする人間は

いなかった。それだけで心の安定を取り戻すことができた。

「人生、捨てたものでもない。」と思った。


 入学まもないある日の休み時間、教室はざわついていた。

私は新しい環境になかなか馴染めずに、

周囲をぼーっと見回していた。

あちこちで会話が盛り上がっていて、私は圧倒されていた。

突然、男子生徒の1人に別室に呼び出された。

その生徒は、私に対しておもむろに

「何でみんなの仲間に加わろうとしないのか?」

と、聞いてきた。

私はこの質問にびっくりしてしまい、答えにつまって

「そんなことする必要あるのかな。」といったような

とんちんかんな返事をしてしまった。

もっと違う言い方があるはずだと考えているうちに、

彼は二言三言、話して去っていった。

考えることに集中していて(たぶん無表情だったと思う)、

返事をした後に言われたことは頭に残っていなかった。


このことは大きな衝撃だった。

しかしちょっとだけうれしかった。


私が知っている男子生徒は2種類しかいなかった。

1種類は、私を貶めるタイプ。

もう1種類はお互い会話のない人畜無害タイプ。

男子生徒の中にも、こういう気骨のある人がいるんだ。

残念ながら「ときめき」はしなかったけれど、

「人生、捨てたものでもない。」と再び思った。

学校生活に希望が持てるかもしれないと感じた。




















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毒衣

小学校入学以来、何をするにも「班」ごと・「クラス」ごとに

行動するように指導されてきた。


授業、掃除当番、給食当番、学芸会、運動会、

遠足、キャンプ、現地学習そして修学旅行等々。

ずっと、努力を重ねて(自分ではそう思っていた)

黙って従ってきた。でも、もううんざりだった。


私は小心者で、いつも「どこかずれてる感覚」を抱えていた

この「どこかずれてる感覚」は、最近よく耳にするフレーズ

「生きづらさ」と同じかもしれないし、少し違うかもしれない。

このマシュマロみたいにふにゃふにゃしている本性を隠すため

(守るため)に、心に鎧(よろい)をまとってきた。


何とか「異分子」にならないように、目立たないように。

それなのに「心が決壊」して、もう疲れ果ててしまった。

私は「鎧」を脱いで、代わりに「毒衣」をまとった。

私に触れたら「毒」にかぶれるよ。

我慢しないで思ったままのことを口にした。

それまでの集団生活で学んだ避けるべき用語たち

(和を乱す・わがまま・利己的・他者を傷つけるなど)

を発しても、ためらうことなく我が道を行くことにした。



当然、私は瞬く間にクラス全体から「浮く」存在になった。

もともと努力していたところで半分は浮いていたのだから、

50%が100%になったに過ぎない。

けれど居心地は更に悪くなった。


当時、ニュースなどで「登校拒否」という言葉が

ちらほらと聞こえ始めていた。

「登校拒否」しようか。

チラッと脳裏をかすめたが、すぐ思い直した。

「登校拒否」=「敗北」だと思った。

私は強情だった。負けるもんか。


それに物理的に無理だった。

当時、年の離れた妹(小学2年)と部屋をシェアしていた。

部屋に鍵はないから籠城はできない。

それに加えて弟や妹の手前、

両親は登校拒否など絶対に許さないだろう。

首に縄をつけても学校に連れて行かれるに違いない。


   私は自分自身を、性格がねじれているだけで
 
   精神的な症状が関係しているなんて

   少しも疑っていなかったし、

   両親だって想像だにしていなかったと思う。



私はいつしか手の甲をカッターでなぞって

にじみ出てくる血を見て落ち着くようになっていた。

死ぬ気なんて毛頭ない。偽りの自傷

生きていることを実感したいだけだった。

手首じゃないのは、私が火傷や切り傷の痕が

残りやすいケロイド体質だったからだ。

手の甲をなぞるくらいなら痕も残らない、

親にもばれない。

ただそれだけのことだった。








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降雨

 集団生活に馴染めないから、学校は好きじゃなかった。

運動会、陸上競技会、球技大会なんて大嫌いだった。

それでも中学2年までの8年間、何とかやってこられたのは

数少ない優しい級友と、小学校で1人、中学校で1人

私を理解してくれる先生のおかげだった。


先生たちは、「君は読書家だから、みんなの知らないことを

よく知っている。そのまま大人になればいいさ。」と言ってくれた。

気持ちが楽になった。



 それは中学3年の春、修学旅行の初日だった。

列車に乗って移動していた。

出入り口に近い座席で、ほどよく静かで

私は走り行く車窓から流れる景色を満喫していた。

突然、向いの席に座っていた男子生徒2人が

仲間を呼んで遊びたいから、私に席を移動するように

言ってきた。座席は予め班編成で決められていた。

私が断ると舌打ちして、

「班長さんよぅ。何でこんな奴、班に入れたんだよ!」と言った。

それを受けてもう1人が、

「知らねぇよ!こいつが勝手に入ってきたんだ。」と返して、

2人でどこかへ行ってしまった。


(私だって、入りたくって入ったんじゃない!
 
 決まりだから仕方なく入れられたんだよ!)


私はまたも言い返せなかった。悔し涙が出てきた。

それを隠そうと眠った振りをして下を向いた。

私が何をしたというのだ。

ずっと、おとなしく集団の決まりに従ってきただけだ。

なのに何でいつも貶められ、文句をつけられ、

嫌な思いをしなければならないのか。


心は土砂降りだった。それは修学旅行中ずっと続いた。

バスで観光地を移動中も、隣の席に仲の良い級友が

座っていたにもかかわらず、話もできないでいたら

車酔いで吐いてしまった。 (気分は最悪)

旅行が終わって学校に着いたら、母が車で迎えに来てくれていた。

「顔色悪いね。風邪でも引いたんじゃない?」

私は「たぶんそうかもしれない。」と答えて車に乗り込んだ。


数日間、心の雨はじとじと降り続いた。

その朝、いつものように登校するために自転車に乗った。

学校までは約4kmほどの距離だった。

天気は良いがあいにく凄い向い風で、力の限り

ペダルを漕いでも、なかなか進まず遅刻してしまった。

朝礼で遅刻の理由を問われると、なぜかパニック状態に陥り

何も答えられず泣き出してしまった。


特に具合が悪いわけではなかった。

クラス委員が気を利かして、風邪のようだからと

先生に話してくれた。

そして病院に連れて行かれ、風邪でもないのに

注射をされて薬をもらった。

私は否定するのも面倒になり、従うだけだった。

親が軽トラックで迎えに来て、自転車を荷台に積み

私は虚ろな表情のまま帰宅した。

布団に潜り込んだとき、何かが外れた気がした。

私の心の水底深くに沈んでいた澱(おり)が

降り続く涙で浮き上がり、心が決壊してしまった。



私は、「もう我慢なんてしない。」と決めた。
















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澱(おり)

 幼児が転んだりしたとき、痛みで泣く子を慰めるための

おまじない=「痛いの痛いの飛んでけー!」

少女期の私は夜眠りにつく前に、それをアレンジして

「嫌なこと嫌なこと飛んでけー!」

と、心の中で唱えていた。

たとえ前の日に嫌なことがあっても、

一晩寝たらすっかり忘れている(もしくは気にしない)

竹を割ったような性格に憧れていた。

しかし、その期待はいつも裏切られた。

一晩寝ても引きずっている。

何十回、何百回と繰り返すうちに諦めてしまって

終いには唱えることも忘れてしまった。


義務教育を修了する年齢までは

社会的には“子供”に分類される。

“子供”は言うまでもなく“成人”になる前の

「未成熟な人間」である。

「未成熟な人間」は勝手で、自己中心的で

素直だけれど、時に他者には残酷である。


“子供”は「未成熟な人間」であるから、

「残酷な言動や行為」をしても罪にはならない。
(もちろん程度によるが)


私の嫌なことの大半は、

「未成熟な人間による残酷(?)な言動」

に起因していた。

自分も他の子供を傷つけていたと思うが

大抵の場合、言い返すことができない私は

それらの記憶を「澱(おり)」のように

溜め込んでいた。



それが中学3年のある日、些細なことから浮き上がってきた。

私はそれまでの報復をするかのように

周囲に毒をまき散らし始めた。

そのことがますます自分を苦しめていくのに、

衝動を抑えきれなかった。


思春期の浅はかな暴走、なんてね
















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親の結婚記念日

 今朝、母から2ヶ月ぶりに電話が来た。

30分ぐらい近況を話してから、受話器を置いた。

電話が終わってから、今日が両親の結婚記念日

だったことを思い出した。

「しまったー。」と思ったけど、電話をかけなおすのも

わざとらしい。間抜けだなと思う、本当に。


私が勝手に「漂流」生活を始めてから、

4年近くが経つ。

当初はこんなに長引くなんて、微塵も思っていなかった。

「微塵も思っていなかった。」わけでもないか。

一抹の不安はあったという方が、最も近い表現だと思う。


それまで「石橋を叩いて渡る」人間で、

時には「石橋を叩きすぎて壊す」こともあった私が、

「石橋から川に飛び込む」という暴挙をやってのけた。


それから犬を背中に乗せて、漂流している。

何度か岸にたどり着いたが、土を踏むことは未だできていない。

けれど不思議なもので、ちっとも後悔していない。

あのまま続けていたら、「3度目の崩壊」が確実に迫っていたからだ。


「3度目の崩壊」=「うつ病の再々発」


 
2年前の今日、両親は「金婚式」を迎えた。

漂流していた私は大したこともしてあげられず、

1冊ずつ「エンディングノート」を送った。

「縁起でもない。」と怒られるかと思ったが、

喜んで受け取ってくれた。


わりと素直な娘だったと思うが、

まるっきり従順だったわけではない。

思春期にはそれなりに些細なことで反抗していた。

妹が思春期に母に向かって、

「誰も生んでくれと頼んだ覚えはない!」と

酷い言葉を投げつけたと、親になってから

しきりに反省していた。

妹は家庭と子供を持って、十分に親孝行していると思う。

俗に「親の気持ちは親になってみなければわからない」という。


だとしたら、私(独身・子供なし)なぞ永遠にわからないだろう。

いちおう犬の保護者ではあるが・・・。


両親はともに70代半ばになった。

結局、何を言いたかったかというと

「私なりに前に進むよー。そのうちきっと安心させて

あげるから元気でいてねー。」

単純に、これだけのことであった。





















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成績凸凹

 中学・高校時代の成績は、できるものはできる

できないものはできない、の落差が激しかった。


父はどうしたものかと不思議がっていた。


理由は簡単だった。

文系科目が好きで集中できたことと、

理系科目には関心がなくて、

テスト前に勉強するだけで

終わったらすぐ忘れてしまうからだった。

それでも理系科目は何とか普通の成績を

取ることができた。


できないことは小学校から変わらず

体育・美術・音楽などで、

もともとセンスの有無を問われる

科目は、からきし苦手だった。


音楽は、楽譜の記号や用語の意味を

言葉で覚えることができても、

音でイメージすることができなかった。
(楽譜が読めない)


当然ながら楽器演奏もうまくできなかった。

父方の従姉妹の一人が絶対音感を持っていて、

テレビから流れてくる音楽を

即興でピアニカを弾いて再現していた。

とてもうらやましかった記憶がある。


 中学3年時、音楽の先生に反抗したことがある。

先生のピアノに合わせながら、みんなの前で

一人で歌うテストがあった。

小心者の私は、それが耐えられなかった。

そして、そのテストを行う意義が解らなかった。

歌の上手下手など、もともと本人が持って生まれた

音楽的な才能によるものではないか。

(もちろん練習や努力で向上することは否定しない)

体育や美術が苦手でも、学習しなければならない

意義はわかる。音楽も芸術に触れる機会を持つことは

大切だと思う。

しかし、みんなの前で強制的に歌わされる必要が

あるのかが理解できなかった。


私は自分の番が来たとき、だんまりを決め込んだ。

当然先生は私に質問し、説得し、最後に諦めた。

後から私は自分が卑怯だったと気付いて、

先生に詫びたいと思ったができなかった。


歌いたくないなら、最初からその気持ちを

伝えればよかったのだ。


言葉でうまく言えないのだったら、

文章にしてもよかったのだ。

それを歌うふりをしてドタキャンした。

甘えていた。フェアじゃない。

全ては後の祭りである。


高校の芸術科目は、「音楽」「書道」「美術」

の中から1科目の選択制だった。

私は「書道」を選択した。

「書道」も、たいして上手ではなかったが

他の2科目よりはましだったからである。
























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新たな悩み(こころ)

 中学校入学後、「どこかずれてる感」はますます増大していった。


 ※人が気づかない細かいことに気づいてしまう

例えば日直当番の名前の綴りが違っていたりとか、

理科の実験器具の並べ方が違っていたりとか、

給食メニュー表の誤字を見つけたりとか、

特に大局に影響を及ぼさない、

言ってみればどうでもよいことに

こだわってしまう。


私が強迫性障害を発症したのは、

就職後まもなくだった。

この頃からその前兆が表れていたのかも知れない。

しかし、いちいち指摘して目立つのも嫌だったので

わざと気づかない振りをしていた。


 ※耳で聞いた情報を具体的にイメージできない

例えば先生や親から、「倉庫に入って、向かって右側の棚の

〇番目に□□があるから、その隣の箱に入っている△△を

取ってきてほしい」などと、言葉で言われただけでは

混乱してしまう。言葉はちゃんと聞こえている。

再度聞いて、取りにいってもわからないことがあった。

「自分は頭が悪いんだ。」と思っていた。



※周囲がなぜ笑っているのか、怒っているのか
  理由がわからない 


これは私が無意識におかしな発言をしたり、

いわゆる失言をしてしまっているか、

または周囲と笑いの「ツボ」が違っていた

のかもしれない。



これらのことを自覚するごとに、

自己肯定感は低くなり、自己嫌悪感は増していく。

しかし、「どこかずれてる感」を具体的な言葉に

置き換える術もなく日々は過ぎていった。










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新たな悩み(体)

私は、中学1年時(13歳になる少し前)に初潮を迎えた。

その前後から、体の不調を自覚するようになった。

   ● 腹部膨満感

   ● 腹鳴

   ● 便通異常

これらの症状は、成人してからもずっと続いて私を悩ませた。

特に生理前は、症状が強くなる気がした。

反対に夏休みなど、長期間の休み中は症状が軽減した。

原因は「ストレス」?、それとも「ホルモンバランスの乱れ」?

はたまた母が胃下垂だったから、私もきっと遺伝していて

それに随伴する症状だったのか?


特に痛みがあるわけではないから

病気ではないのかもしれない?

インターネットなどない時代だったので、

どうやって調べるのかもわからなかった。

最近になって症状をもとに調べてみたところ、

あくまで自己判断に過ぎないが

「呑気症(空気嚥下症)」や「過敏性腸症候群」

が当てはまるのではないかと思った。


もう一つの悩みは「腰痛」が始まったことだ。

中学2年時、体育の授業で走っていた。

突然、右のお尻から下肢にかけてビリビリッと

電気が走るような痛みに襲われた。

それっきり、腰が痛くて走れなくなった。

整形外科で検査して、痛み止めの注射を打たれた。

診断結果は、「先天性脊椎披裂」による

「椎間板性腰痛症」だった。


「先天性脊椎披裂」とは簡単に言えば、

背骨の一部が生まれつき出来上がっていない状態のことだ。

しかし「先天性脊椎披裂」を持つ人は割とたくさんいて、

全員が腰痛を発症するとは限らないという話だった。


そうだとしたら原因は何か。

私は中学入学後、1年間に身長8cm/体重7kg と大幅に成長した。

急激な成長に骨がびっくりしたのだろうか?

それとも元々正しい姿勢を保つことが長続きしなかったせいなのか?

治療は湿布と並行して、整骨院にマッサージに通った。

痛みはやがて消えたが、このとき以降たびたび再発し、

成人してからも「椎間板ヘルニア」にかかるなど、

「腰痛」が持病になってしまった。

それにしても13歳で腰が痛いなんて、

年寄りのようで恥ずかしかった。







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